娘が1歳になった春のこと。妻の育休明け、職場復帰の前夜のことを、今でもよく覚えています。
あの夜、寝室で布団に入ったあと、妻が天井を見つめながらぽつりとつぶやきました。
「明日からどうなるんだろう」
それは質問でも相談でもなく、ただ、気持ちがあふれて出てしまった独り言のような言葉でした。
僕は、何も言えませんでした。「大丈夫だよ」も「一緒に頑張ろう」も、そのときの妻には響かない気がした。だから、ただ「うん」とだけ返して、隣でじっとしていました。
その夜、僕はスマホのアラームを朝5時にセットしました。妻が育休明けで職場に戻る初日。せめて、僕にできることは全部やろう、と決めたからです。
朝5時、まず妻のお弁当を作った
5月のある月曜日。アラームより早く、4時50分に目が覚めました。
外はまだ暗くて、家の中もしんと静まりかえっていました。妻と娘が眠っている隣で、僕はそっと布団を出て、台所に向かいました。
最初にやったのは、妻のお弁当作りです。
正直、お弁当なんて作ったことがほとんどありませんでした。でも、前夜のうちに「明日の朝、お弁当作ろう」と決めて、妻に内緒で材料だけ買っておいたんです。
炊いておいたご飯を握って、卵焼きを焼いて、冷蔵庫にあったブロッコリーを湯がいて、ウインナーを焼く。あとは、冷凍食品を詰め込む。それだけのシンプルなお弁当。妻が普段作ってくれているお弁当と比べたら、全然見劣りするものでした。
でも、「作ってあげたい」というその気持ちだけは、本物だったと思います。
娘の朝ごはんと保育園準備をリストアップ
お弁当を詰め終わって、時計を見たら5時40分。妻が起きるのは6時半。まだ時間がありました。
そこで、メモ帳を開いて、その日やるべきことを書き出しました。
- 娘の朝ごはんの用意(バナナとパンとヨーグルト)
- 保育園バッグの準備(おむつ・着替え・連絡帳)
- 娘の歯磨き
- 娘の着替え
- 家族3人分の朝食
- 食洗機を回す
- 洗濯物を干す
- 保育園に送る
- その後、自分の出勤
書き出してみて、ぞっとしました。
「これ、妻、毎朝1人でやってたの……?」
育休中、妻が朝バタバタしているのは知っていました。でも、僕は会社に行く前に着替えと朝ごはんを食べるくらいしか手伝っていなかった。妻が「今日も慌ただしかったよ」と笑っていた、その背景にこんなにたくさんのタスクがあったとは、正直、ちゃんと理解していませんでした。
メモを見ながら、僕はちょっと悔しい気持ちになりました。これまで、妻の「朝のしんどさ」を、自分はまったくわかっていなかった——。
初日、計画の半分しかできなかった
結論から言うと、僕の朝5時計画は、半分しか達成できませんでした。
娘の朝ごはんは予定通りに食べさせられた。保育園バッグも前夜に準備してあったから問題なかった。でも、想定外のことがいくつも起きました。
娘がパジャマから着替えるのを断固拒否して、20分くらい床に寝転んでいた。歯磨きも嫌がって、結局、妻が起きてきてからお願いした。洗濯物を干そうとしたら、洗濯機がエラー音を出して、対処に10分かかった。
気づいたら、保育園の出発時間ギリギリ。妻と一緒にバタバタと玄関を出て、娘を保育園に送って、僕は自転車で駅に向かいました。
計画通りにいかなかったけど、それでも、初日の朝に妻と並んで娘を保育園に送れたことは、僕にとって特別なことでした。
妻が職場から帰ってきたその夜
その日の夜、妻が職場から帰ってきました。
玄関を開けた妻は、ちょっとくたびれた顔をしていました。でも、リビングに入って、持って帰ってきた空っぽのお弁当箱を出して、妻は笑ってこう言いました。
「初日に、こっそり朝早く起きてた?」
「うん」
妻はしばらく無言でお弁当箱を見ていました。それから、ありがとう、と小さくつぶやきました。
夜、娘を寝かしつけたあと、妻と少し話しました。妻が言ったのは「お弁当は嬉しかったけど、それより、朝バタバタしてる横にあなたがいたのが、一番安心した」ということでした。
正直、ちょっと拍子抜けしました。お弁当を渾身の力で作ったつもりだったのに、妻にとっての「一番」は、もっとシンプルなことだったんです。
でも、考えてみれば、当たり前のことかもしれません。妻が望んでいたのは、特別なことじゃなかった。初日のしんどさを、一緒に背負ってくれる存在が隣にいる。それだけだったんです。
あれから1年が経って
あの初日から、1年以上が経ちました。
朝5時起きは今も継続しています。お弁当も、今は週に2、3回程度僕が担当していて、完璧に分担できているわけじゃありません。
でも、あの初日に学んだことは、今もずっと続いています。妻の負担を少しでも減らせるよう日々協力して家事育児をこなしています。
妻の朝のタスクを、僕はちゃんと理解するようになった。「忙しそう」と思ったら声をかけて、できることをやる。妻が「今日もありがとう」と言ってくれる回数が、明らかに増えました。
もし、これから妻が育休明けで職場復帰するパパがいたら、伝えたいことがあります。
初日に、何か特別なことをしなくていい。お弁当を作らなくてもいい。早起きしなくてもいい。ただ、その日の妻の朝の景色を、最後まで一緒に見届けてあげてください。それだけで、たぶん、妻の心はずいぶん軽くなる。
1年経った今、僕はそう思っています。
あの日のお弁当箱は、今も台所の食器棚の奥に置いてあります。妻が捨てずに取っておいてくれたんです。それを見るたびに、あの初日の朝の、暗い台所の静けさを思い出します。
明日もまた、家族3人で笑って過ごせる日にしたい。それが、僕の願いです。

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